廃墟

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  • 性的描写有り
1人目

乾いたタイルが太陽の光を吸い、プールの縁に立った若者の足元を焼く。
彼はただ一人、この廃墟となったプールにいた。
風化したコンクリートの壁には、かつての賑わいを物語る色褪せたペンキの跡が残っている。彼は鮮やかな赤の競泳水着を履いていたが、それは妙に場違いに見えた。
水は真っ黒に澱み、表面には油膜が張っている。
彼はゆっくりと手を伸ばし、その水に触れようとした。
その瞬間、彼の背後で更衣室のドアが開く音がした。

2人目

ギギッ……
それは微かな音だった。

だが、廃墟となったプールの前に佇む彼の耳にはその耳障りな音が嫌にはっきりと聞こえた。

3人目

彼は伸ばしかけた手を止め、ゆっくりと振り返った。ドアは半開きになっていて、漆黒の闇が奥から覗いている。

彼の脳裏に、このプールの在りし日の記憶がフラッシュバックした。歓声と水の飛沫、そして太陽の光に輝く水面。しかし、今はただ静寂と荒廃があるだけ。

彼の伸ばしかけた手は、そのまま虚空に静止していた。彼の視線はドアに注がれているが、その思考は別の場所にあった。
この真っ黒に澱んだ水。油膜の下にあるものは何だろう。
過去か、後悔か、あるいは、彼自身が忘れ去ろうとした何かか。
ドアの軋む音は、彼自身の内側から響いた警鐘のようだった。何かを見つけてしまうことへの、あるいは何も見つけられないことへの、恐怖。

4人目

このプールで何があって廃墟となったのか、その黒い過去は彼を依り代にして引き出されようとしていた。

5人目

闇の中から現れたのは、一人の男だった。
男は濡れて張り付いたような黒のきわどい競泳水着一つの姿だ。その肢体は驚くほど端正で、かつてのこのプールの黄金期を象徴するような、鍛え上げられたアスリートの肉体を持っていた。
しかし、その肌は陽光を跳ね返すほどに白く、どこか生気がない。

6人目

「姿勢が悪いぞ。腰を浮かせろ」
現れた男は、感情の欠落した瞳で若者を射抜いた。その手には、ボロボロに錆びたホイッスルが握られている。
若者は困惑し、後ずさりした。
「あなたは誰だ……? ここはもう、何十年も前に閉鎖されたはずだ」
「このプールの水がなぜ抜かれないか知っているか? 抜いてしまえば、見えてはならないものまでが露わになるからだ。当時の理事長も、コーチ陣も、それを恐れた」
男は更衣室の闇の方を顎でしゃくった。
「あの中の左から3番目のロッカーを見てみろ。お前の父親の名が刻まれたプレートがあるはずだ」
若者は息を呑んだ。父はこのプールの特待生だったと聞いている。
だが、現役時代について語ることは一度もなかった。
「父が、ここで何を…」
「彼は逃げられた側だ。だが、彼の同期たちはそうではなかった。ここは『育成』という名目で、有望な少年たちを集めた闇の檻だった」

7人目

男の瞳に宿る圧倒的な威圧感に、若者は抗う術を持たなかった。まるで目に見えない糸で操られる人形のように、彼は更衣室の深淵へと吸い込まれていく。
ロッカー室は暗く、冷え切っていた。
左から三番目のロッカー。そこだけが、まるで昨日まで使われていたかのように異常な光沢を放っている。
「これは…!」
ロッカーの戸の裏側に隠されるようにして、一枚の古い写真が貼り付けられていた。
そこには肩を組んで笑う二人の少年の姿。
一人は父。
そしてもう一人は、今、背後に立っているあの男の姿だった。

若者は導かれるようにプールに戻る。
「僕たちは、タイムを1秒縮めるごとに人間であることを捨てさせられた」
男が水際へ歩み寄る。その足音は一切しない。
彼が指差した黒い水面から、ぼうっと白い影が浮き上がってきた。
一人、また一人。
それはかつて父と共に競い合ったはずの、十数人の少年たちだった。 彼らは皆、男と同じように、感情を失った瞳で水面に上半身だけを出してこちらを見上げている。