ケフィアの秘宝、ifルート
次の日の朝、ハリスは旧鉱山へ戻る道を選んだ。昨日の銀塊発見で資金面の心配はなくなったものの、彼の心は図書館で聞いた「海につながっている」という道と、女海賊ケフィアの財宝へと向かっていた。一本道が二つに分かれる場所に来た彼は、迷うことなく右手の道、海へと続く方へ進んだ。
奥へ進むにつれて湿気が増し、潮の香りが強くなってきた。やがて、わずかな光が差し込む広い空間に出た。そこは、鉱山の坑道が崩れてできたかのような、小さなドーム状の空間だった。天井の隙間から細く光の柱が降り注ぎ、その光を受けて、底に澄んだ水を湛えた地下水脈がキラキラと輝いている。
ハリスは「なんてことだ…」と感嘆の声を漏らした。財宝探しは一時忘れ、この静かで神秘的な光景に心を奪われた。彼はバックパックを岩の上に置き、服を脱いだ。ひんやりとした空気が肌に心地よい。ゆっくりと水に足を踏み入れる。水は思いのほか冷たく、彼の鍛えられた身体の筋肉がわずかに引き締まるのを感じた。冒険で日焼けした肌が、差し込む光を反射して仄かに光る。彼は全身を水に沈め、心身の疲れを癒した。
水浴びを終え、水面から顔を出したその時、奥の岩場から複数の足音が聞こえてきた。ハリスは慌てて岩陰に身を隠した。彼の身体は水に浸かったままだ。やがて、三人の男が暗闇から姿を現した。彼らはハリスと同じようなトレジャーハンターの装備を身につけており、その顔には疲労と警戒の色が浮かんでいた。
男たちは、ハリスが脱いだままの服とバックパックに気づくと、すぐに表情を変えた。リーダー格の男が、無言で服を脱ぎ始めた。ハリスは息を潜めたまま、彼らの様子を見守る。男たちの身体はハリスよりも無骨で、幾つもの傷跡が冒険の過酷さを物語っていた。
三人はゆっくりと水に入ってきた。彼らはハリスから数メートル離れた場所で、水面を凝視しながら、小声で話し始めた。その声は水に反響し、ハリスの耳に不気味に響く。
「あの荷物は新しい。まだ近くに居るかも知れない」
リーダー格の男が言った。
ハリスは恐怖で全身が硬直するのを感じた。彼らの視線が、時折彼の隠れた場所へと向けられる。偶然か、それともすでに気づかれているのか?彼の心臓は激しく高鳴り、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。男たちの言葉は、彼らがハリスの存在を確信していることを雄弁に物語っていた。
三人は水から出ることもなく、ハリスの目の前で向き合い、相談を始めた。
ハリスは、もはや逃げられないと悟り、音を立てないようにゆっくりと水中に身を沈めた。
澄んだ水のおかげで、彼は水中から男たちの様子をはっきりと見ることができた。
冷たい水の中、三人の逞しい男性器が、まるで太いウミヘビのように揺れているのが見えた。ハリスは、息をこらえながら彼らの無防備な姿と、その裏にある不穏な気配を感じ取っていた。
もし彼等が友好的なら、こちらに声をかけるはずだ。だが彼らはただ目を光らせ、何かを探るように周囲を見回すばかり。
その緊張した雰囲気が、ハリスに危険を告げていた。
(どうする…)
ハリスは息が苦しくなるのを感じながら考えた。
三人の目的は?やはり財宝か?それとも…。
ハリスは水中でじっと三人の行動を観察し続けた。
水中で息を潜めるハリスの耳に、奇妙な音が届いた。水の奥底から、かすかな振動のようなものが広がってくる。男たちも気づいたのか、会話を止めて水面を見つめた。
「……今の、聞こえたか?」
「何かが、近づいてる」
次の瞬間、地下水脈の底から泡が立ち上り、光の柱の中に、ゆらりと影が浮かび上がった。それは巨大な半透明の塊――水母のような形状をしていたが、触手のようなものが何本も揺れており、中心部には脈打つような赤い核が見えた。
「なんだ、あれは……!」
男たちが一斉に後ずさる。ハリスも岩陰から身を引いたが、怪物は彼らに向かってゆっくりと接近してくる。水が震え、空間全体が不気味な圧力に包まれた。
怪物の触手が水面を叩くたび、波紋が広がり、光が歪む。だが、その動きはどこか緩慢で、攻撃的というよりは探索するような様子だった。男の一人が岩を手に取り、怪物に向かって投げつけた。
「やめろ!」
ハリスが思わず声を上げる。だが、岩は怪物の体をすり抜け、何の反応も示さなかった。
すると、怪物の触手の一本が男の足元に触れた。男は叫び声を上げて倒れ込むが、怪我はない。ただ、彼の身体は一瞬、青白い光に包まれた。
「……記憶が、見られた……?」
男が震える声で言った。怪物は、攻撃ではなく、何かを“読もう”としているようだった。
ハリスはゆっくりと水から出て、怪物の前に立った。
「君は、ケフィアの財宝を守っているのか?」
怪物は答えない。ただ、触手の一本がハリスの胸元に触れ、彼の心に何かが流れ込んでくる感覚がした。過去の記憶、冒険の断片、そして――ケフィアの名を冠した古代の航海図が、脳裏に浮かんだ。
怪物はしばらくその場に留まり、やがて静かに水中へと沈んでいった。水面は再び静けさを取り戻し、男たちは呆然と立ち尽くしていた。
「……あれは、門番だったのかもしれない」
ハリスがつぶやく。
「財宝の場所を知る者だけが、通れるように」
男たちは黙って頷いた。恐怖と驚きの中に、どこか敬意のようなものが漂っていた。
そして、地下水脈の奥――潮の香りが濃くなる方向に、微かな光が揺れていた。
リーダー格の男がゆっくりと口を開いた。
「おい、あんた。俺たちを助けてくれたようだが…」
ハリスは黙って男を見つめた。
「その礼はする。だが、財宝は別だ。俺たちはこの財宝のために、何年も探し続けてきた。あんたが一人で独占するつもりなら、ここで手を引いてもらうぞ」
男の目は真剣だった。ハリスは冷静に答える。
「この先に何があるのか、まだわからない。一人で進むのは危険すぎる。あの怪物が教えてくれたのは、協力することの重要性じゃないのか?」
ハリスの言葉は、男たちの耳には届かなかった。リーダー格の男は、ハリスの言葉を最後まで聞かずに、一歩前へ踏み出した。
「お前が何を言おうと、この先へ進むのは俺たちだけだ」
男はそう言うと、ハリスの前に立ち、そのたくましい胸板を突き出した。ハリスもまた、一歩も引かずに男と向き合った。
二人とも素っ裸の、ただ身体一つで相手の威圧感を受け止めていた。
張り詰めた空気が二人の間に満ちていく。
「よし、決めた。ここはお互いフェアに行こう。この先へ行く権利をかけて、勝負しよう」
リーダー格の男が提案してきた。
だがハリスは眉をひそめ、「待ってくれ」と手を上げた。
「ここで無駄な体力を使ってどうなる? 先に何が待ち受けているか分からないのに」
リーダー格の男は一瞬苛立ちを見せたが、「他に方法があるというのか?」と低い声で問うた。
ハリスは深い溜息をついた。暴力は避けたい。だが、この男たちを納得させるには、それしかないことは理解していた。
「わかった。お前の提案を受け入れる」
ハリスの言葉に、男たちの顔に獰猛な笑みが広がる。彼らはハリスの引き締まった体を侮ってはいないが、自分たちの圧倒的なパワーで押し潰せると確信していた。
「勝負方法は?」
ハリスは簡潔に尋ねた。
リーダー格の男は、たくましい胸を張り獰猛な笑みを深くした。
「決まっているだろう。『レスリング』だ。武器は無し。二人とも素っ裸、あそこの岩の上で純粋な力と技術で決める。先に相手の背中を地面につけた方か岩から落とした方の勝ちだ」
リーダー格の背後の二人の男が、待ちきれないとばかりに拳を打ち鳴らした。
「お前は引き締まっているが、俺のパワーには敵わない。すぐさま終わらせてやる」
リーダー格の男はそう言うと、わずかに身をかがめハリスとの間にあった距離を詰めた。
男の体からは、長い探索で鍛え抜かれた筋肉と暴力的なまでの自信がほとばしっている。
ハリスは即座に悟った。この男は純粋な力比べを望んでいる。
ここで自分達にとって有利なルールを飲ませ、自らの力を示すことこそがこの先で主導権を握る唯一の道だと思っているのだ。
ハリスも無言でファイティングポーズを取る。全身の筋肉が収縮し、まるで鋼のように引き締まる。彼は体格で劣ることを知っていたが、その分スピードと柔軟性で勝負するつもりだった。
「よし、決まりだな。あそこの岩まで泳いでいくぞ」
リーダー格の男が指差した先には、水面から十センチほど顔を出した平らな岩があった。まるで二人のために用意されたリングのようだった。
男の体がしなやかに動いた。大きな体にも関わらず水中では信じられないほどの機敏さで岩に向かっていく。
「遅れたら勝負にならないぞ!」
男の挑発にハリスは少し腹が立ったが、男と競うように岩へと向かった。
岩の上で対峙する二人。
ハリスとリーダー格の男。
お互いの肉体を惜しげもなく晒し合う。
ハリスの肉体は細くしなやか。だが、無駄な贅肉は一切ない。長年の探検で培われた柔軟性と敏捷性が全身に宿っていた。
一方でリーダー格の男の肉体は圧倒的。鍛え抜かれた大胸筋と六つに割れた腹筋は野生動物のように隆起し、肩幅の広さはハリスの比ではない。
水滴が二人の体を滑り落ちる中でハリスはじっくりと相手を観察した。
(体格は向こうが有利。だが力任せだけの男なら付け入る隙はいくらでもある)
ハリスは深く呼吸を整えた。
「…始めよう」
ハリスが短く宣言すると、リーダー格の男は獰猛な笑みを浮かべた。彼は両腕を大きく広げて構えを取り、圧倒的な体格差を誇示するようにじりじりと距離を詰めてきた。
ハリスの分析は完璧だった。この男は確かに怪力だが、技術面では素人同然だ。無駄な力みで体幹が甘い。狙うべき弱点は明白だった。
最初の接触で全てが決まる。ハリスは相手の突進を横にスライドしながらかわす。巨漢の腕が空を切った刹那、ハリスは素早く相手の左脇腹に膝を入れた。鍛えられた腹筋に阻まれ威力は半減したが、それでも相手の体がぐらつく。好機だ。
岩の上の限られたスペースで足技を使うのは冒険だったが、この一瞬を逃すわけにはいかない。リーダー格の男の身体がぐらりと傾く。だが、彼も必死だ。咄嗟にハリスの髪を掴もうとする。それを予期していたハリスは頭を下げて回避し、そのまま相手の腹部に肘打ちを叩き込んだ。
「ぐぁっ!」
バランスを崩した男が前屈みになる。ハリスはその隙を逃さない。相手の首筋に腕を巻きつけ、背後に回り込んだ。あまりにも一方的な展開に二人の手下は茫然としている。
「これ以上は無駄だ。降参しろ」
ハリスはあえて冷徹に言い放つ。しかしリーダーは歯を食いしばり抵抗する。
それを見た手下達はリーダーの加勢をするために駆け寄ろうとしたが「待てっ!これは一騎討ちだ」とリーダー格が制止する。
ハリスはさらに体重をかけ腕を絞めた。男の顔が苦痛で歪む。それでもまだ諦めようとしない。
(なかなか根性があるな)
ハリスは内心感心した。ここまで追い込まれても尚闘志を失わないとは。だが今は同情している場合ではない。